Ab-03. え(えのき)










Ab-03

榎 ヱ

エノキ
榎木 ニレ科

漢名:榎・朴樹・

【万葉集記事】 

16-3872 の一首

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16-3872
 由緒ある雑歌

吾門之
榎実毛利喫 百千鳥 千鳥者雖来 君曽不来座

わが門かど
の実もり喫む 百千鳥ももちどり
千鳥は来くれど 君ぞ来まさぬ 

注釈
もり喫む=もいで食べるの意か、或いはもりもり一杯食べるの意か、

【概説】

[]
を寄生木ヤドリギと解く捻くれた説もあるが、これはニレ科のエノキとして間違いない。ヤドリギ説は、エノキが寄生木の宿主になることがあるので、たまたまヤドリギの生えていた情景を見て誤認したのかも知れない。日本紀などの古典では朴と書いてと読ませているのが何時のころかエノキとなった。<和名類聚抄(932938)>で榎・檟・と書き、エノキと訓じている。この木は農耕の鍬や鋤の柄に使われることより「柄の木」であったものがノキを省いて

となったと、或いは肥えた木で枝が多く出ることを語源との説である。この木の実は甘く、子共が好んで食べるので、またムクドリやヒヨドリが啄ばむので、エノミ・ヨノミとも呼ぶ。この木は生木でもよく燃えるのでエノキの略であるともいう。

エノキの地方の方言は、エノキ、エノツ、エミギ、エンノキなど種々あるが、大体同一調のを強調した名前に揃っている。

この木は枝を広げて良く繁って、夏の日は日影を作り樹下は憩いの場所になることより、和字では「夏」の字を付した「榎」が用いられているが、漢語は「朴樹」である。霊木として江戸時代に、村落の一里塚に植樹された。其のとき三代目将軍が“一里塚にはマツでなく「余の木」を植えよ」”と言ったのを、耳の遠い側近大炊頭土井利勝が聞き間違えて、エノキを植えることにしたと。

この話は面白いので<雨窓閑話(上巻)>に載っているのでるが、同じ話が<本朝世事談樹綺>に信長公を主人に変えて、また<碵鼠漫筆>には、秀忠公が指示したことになっている。

榎は、道路傍によく見られた樹木で、嘗って昔は村毎の境界から一里ごとに一里塚と称する道標を置き、榎などの樹木を植え、小さな祠堂を拵え地蔵を祭ったりしていた、榎は、また神社・寺院にも植えられていたが、一般の民家にはあまり植えられていない。それは巨木になると、神木また祟木とされるからで、エノキとツキの両方を植えて縁の尽きなる縁切り榎(東京板橋岩の板)、逆に縁が付くと縁結榎(長崎県日向榎原町橿原神社)、縁の悪い首縊榎(南足立保木間),など曰つきの木が保存されていた。東京赤坂に閲兵榎2代目があるが、これは明治天皇が凱旋の将兵を閲兵したときの記念である。熊野に聖徳太子が巡航のとき水主の古麻呂の家の門に大榎があったとの言い伝えがあり、ここの住民は榎姓を名乗る。エノキの巨木はあるが、そう長寿でなく、国の天然記念物に指定されたものはない。長野県丸子町薬師堂にあるシダレエノキは畸形珍種と言うことで文化財になっている。

漢名でも榎の字を用い、他に朴・檟・柃・の字も当てられる。朴樹は日本ではホウノキであるが、中国ではホウノキは厚朴を使う。

<新撰字鏡>


郎丁反、舟有窓、衣の木

<書言字考節文集
6>


<天治字鏡>


衣乃木

<本草和名
12
>

槐実、槐耳(槐樹菌也)、一名槐耳匿鶏(即槐樹櫺也、出録方)、槐一名守宮(兼名苑)、虚星之精経(出大星経)、和名恵乃実

<和漢三才図会
83
喬木
>


和名衣
(榎楸共桐之属見干前、今云、衣乃木可 謂欅之属)

按榎木山林多有之、封堺植之 高者五六丈、可合抱、其葉似樺而団大微光沢,若葉可 茹、四月尽小花、蒼色状如雀尿、付生葉而、不開而凋落、故視之者鮮、枝梢結 子大如 豆、生青熟褐色味甘、小児食之、有早晩二種、椋鳥ヒヨドリ食之

<大和本草
12
樹木>

、本草には楸ひさぎの葉小なるを榎とす。今按にエノキは楸の類にあらず、然らば本邦にて榎をエノキとするは誤なるべし、万葉集及び順和名抄に榎字エと訓ず、出所不詳、葉は桑に似て筋多し、冬葉落つ、葉はよく漆瘡を治す。新漆器に榎葉を入れば毒気去る。実は胡椒の大きさ程、秋熟して黄なり。味甘し、小児好んで食う。榎は焼きて煙すくなく燃湯、故たき火に用う。煎湯を浴す、中風の症及萎痺を治す。和俗試知る処なり。

<大和本草批正>

榎エノキは朴なり。これ爾雅の文を本草に引たるなり、葉互生す。桑に似す、エノキ俗誤まってヨノミと言ふ。

<倭名類聚抄
20
>


爾雅注云、榎一名
木鼡上音古雅反、字亦作檟、下音瑙、

<箋注和名類聚抄
10
>

爾雅釈文云、榎、舎人本又作、檟、楸也,或仮夏字、楽記、夏楚二物、鄭注、夏木鼡,俗从
木遂作
榎字也、毛詩、有 梅、伝条稲也、正義引陸機蔬云、稲、今山楸也、亦如下田楸耳、皮葉白色、亦材理好、宜為車板農 潜、又可為棺木、中略 釈木云、稲山榎、郭曰、今之山楸、与此不、毛詩正義引李巡云、山榎一名稲、此所
引蓋是、源君所 見本誤説
山字也、下総本有和名二字、衣下有乃木二字、与類衆名義抄、伊呂波字類抄一合字鏡、枌衣乃木、釈本云、槐、小葉曰槐、郭曰、槐当 為榎
,爾雅又云、大而斮楸、小而斮榎、郭曰、老乃皮
 

粗斮為
楸、小而皮粗斮者為 榎。

<爾雅注蔬
9
釈本>

槐小葉曰
榎注 槐当 為楸、楸細葉者也為 榎、大而斮榎、注、中略 左伝曰、使
美榎一名、案襄年夏斉姜死、始穆姜択美榎、自為槻与頌、琴季文子取以葬、是其事也。

<本草
>

和名
榎 時珍曰、楸 葉大而早脱 故謂
之秋、榎葉小而早秀、故謂

<大和木経>

この木に生ずる菌をエノキタケと云。ナメススキともいふ。味よし。信州にて天井板に用ゆ。上品なり。

<越後名寄>

芽の出嫩葉の軟なる者、飯に交じて食う。味善し也。

<草木性譜>

朴樹、山野及び所々に多し、其の葉春生ず。夏花を生じ実を結ぶ。其葉中に麦程の如きもの、また葉面縮ものあり、是虫窼なり。

植物

エノキ

C eltis sinensis Pers.
var. japonica Nakai

ニレ科 エノキ属

(C eltis orientalis
Thunb,; C, japonica Planch.)

エ、エノミノキ、ヨノミ、ヨノキ、ユノキ、エンノキ、イボイボノキ、ヱモク、アマミ、カラスモク、ケビノキ、プンキ、ビンギ、サトノミノキ、モエノキ、ムシオ、ツキノキ、

漢語:榎・木楚・檟・木本・柃・柞・朴・樸樹・撲楡・加条木・粕仔・槐・枰木・青朴・鬘華

英語 Japanese
Hackberry

独語 Chinesische
Zuregelbaum

仏語 Micocoulier
de la Chine

学名はギリシア語の鞭の意味

北海道の南部、本州、四国。九州。中華国、に分布。自生若しくは植栽、基本種は中華国原産か?高さ20m,幹周り3mにもなる落葉喬木、ムクノキに似るが、本種の樹皮は灰色系で割れ目はないが、小凸凹あり、ざらつく。葉は互生につき、長さ410cm
の広卵型ないし楕円形、葉の裏面は白色掛かっている。葉脈は元から主脈と2大支脈の3行脈が明瞭で周縁のやや半分が全縁で上端は不明瞭の鋸歯。4~5月淡黄色の小さな雄花と両性花が開く。果実は直径6~8mmの広楕円形で10月頃赤褐色に熟して甘い。小鳥が好んで食す。陽樹で浅根性、成長は遅い。

補説:

1.
葉の葉脈は左右非対称。

2.
樹皮は帯白色系であるので、遠くからみてヌクノキと識別できる。

3.
果実は始め緑色であるが、熟する課程で黄緑~紅~紫に変化する。完熟すると甘くて美味。

4.
花被片は雄雌花ともに同じ大きさである。ムクノキでは差別がある。

{近縁}

変種

シダレエノキ

f.
pendula Honda

マルバエノキ

f.
rotundata Nakai

ナガバエノキ

f.
longifolia Uyeki

オオバエノキ

f.
magnifica Nakai

ムラサキエノキ

f,
purpurascens Nakai

エゾエノキ

Celtis
jessoensis Koiz.

葉は薄い。長先、果実

ナガバエゾエノキ

var.angustifolia
Nakai

コバノチョウセンエノキ

C,
Leveillei Nakai

本州・九州・朝鮮

コウライエノキ

var.
heterophylla Nakai

チュウゴクエノキ

var.
holophlla Nakai

コバノエゾエノキ

C.
Bungaena Blume
   

本州・朝鮮・満州・中国

オガサワラエノキ

C.
Koidzumi Nakai

小笠原・沖縄

リュウキュウエノキ

C.
liukiuensis Nakai

沖縄

タイワンエノキ

C.
formosana Hara
   

台湾

コバノエノキ

C.
hervosa Hemsl.

台湾

コウトウエノキ

C.
philippinensis Blanco

チョウセンエノキ

C,
koraiensis Nakai

チョウジュエノキ

C.
cordifolia Nakai

オヒョウバエノキ

C.
aurantiaca Nakai

クロミエノキ

C.
Choseniana
 Nakai

キミノエノキ

C.
edulis Nakai

アメリカエノキ

C,
occidentalis L.

カナダ・アメリカ

ウラシロエノキ属
Trema

ウラジロエノキ

Trema
orientalis Blume

エノキ属Celtis,北半球の熱帯~温帯に約70種知られている。日本のものは落葉喬木である。葉に特徴がある。

エゾエノキ

葉は卵形、裏面は銀白色、基部以外の縁は内曲する鋸歯。果実は黒く熟す。果梗は長く2025mm

エノキ

葉の中部以上にあまり著しくないが鋸歯があり、裏面は淡白か黄緑色。果実は褐色に熟する。果梗は515mm

コバノチョウセンエノキ

小高木。葉は長さ37cm,23.5cm先端は尾状に尖り毛は殆どない。樹皮は灰白色。

【古典】

<日本書紀
崇峻天皇
>

蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子と群臣とに勧めて、物部守屋大連を滅ぼさむことを謀る。大連、衣摺の朴エノキの枝間に昇りて臨み射ること雨の如し。

<
天武上4>

大伴朴本連大国 

<常陸風土記 行方郡>

南に十里往くと板来の村があり、その西に榎が林を作っている

<風土記壱岐逸文>

常世の社あり、一本の朴樹がある。(ここでの朴樹は愛乃寄である)

<夫木和歌集
29-11>

川ばたの岸のえのきの葉をしげみ 道ゆく人のやどらぬはなし 為家

<今昔物語14>

備前国盲人知前生法花語第19

この生には目を不得。汝前世に毒蛇の身を受けて信濃国の案田寺の戌家の角の榎の木の中に有り

<源平盛衰記27>

聖徳太子椋付
天武天皇榎木事

天武天皇は大伴王子に被襲、吉野の奥より山伝いして伊賀伊勢を通り、美濃国に御座けるに西戎を引率して、不破関まで着給けり。天武危くて見に給いけるに、傍に大なる榎木あり、二つに割れて天武に奉陰て後に王子を滅ぼして天武位に付き給へり。

<徒然草
45>

公世の二位の兄に、良寛僧正と聞えしは、きわめて腹悪しき人なりけり。坊の傍に大きなる榎の木のありければ、人、榎の木の僧正とぞ言ひける。

<園百花画譜>

エノキ二種有り、一種はムクエノキと云う、軍陣盾の板に用ゐ鉄砲矢等を禦ぐ具とする、榎は馬鞍に作ると云

<俳諧>

榎の実散る
むくの羽音や朝あらし

芭蕉

榎時雨して
浅間の煙 余所にたつ

蕪村

椋の実や
一むら鳥のこぼしゆく

漢水

椋の実に
旅も果て成る一日かな

楸頓

椋鳥のひときわ騒がしむくの実は

源将

甘いと聞き
ちょと齧ってムクの種

水木真貫

つくずくと
榎の花の 袖にちる

桐葉

日の影の
残る榎の実や 一里塚

浮左

山伏の門
掃いている 榎の実かな

成美

さがなしや
榎にすがる夕涼み

事風

【名前・喩言】

[語源]

枝の木、柄の木、燃えの木、祟りの木、

[古語]

榎ヱ

[別名]

稜木そばのき、榎椋えむく、雌椋木めむく、榎実木よのみのき、よろんこ、あまみ

[漢語]

朴樹(慣用)/ 榎・加条木・朴仔樹・樸樹・青檀木・樹菓子・

【用途】

榎の材はやや堅く、柔曲性に富む。建築材・器具・家具、薪炭用

新芽は茹でて食用にする。実は甘く食用になる。リカーに漬け込み果実酒にする。

薬用に、樹皮は煎じ湯を、中風・通径に、葉は虫かぶれに、

【巨木・老木】

樹齢

樹高

幹周

明神のエノキ

陸前田原町字本町岡
明神社境内

諏訪神社のエノキ

会津若松市二元町諏訪神社

袋原のエノキ  

福島県河沼郡合津坂下町長井字嚢下

200y

20m

5.0m

2本癒着し1本は枯死
町天

飯山の大エノキ

岡山県上房郡有湊5056

500

6.4

飯山家所有 台風被害
県天

筒地の大エノキ

鳥取県東伯郡泊村筒地字谷奥215

350

16,5

7.2

同村の共同墓地
村天

【参考】

エノキは祟り易い木として尊崇する例は数多ある。神木として崇拝されているものに、陸前田尻町の岡明神、会津若松市の諏訪神社、信州野沢町の諏訪神社、大津市の膳所大明神、越後出雲崎町の寄木神社、等等の神社のご神木はエノキを拝している。その他、播州室津村の五輪塔塚の榎、武蔵北吉美村の願木大榎、越後南蒲原郡の荒神、東京高田馬場の穴八幡に伝説つきの榎がある。武州比企郡鎌形村の農家で起きた怪異は、庭の榎の太枝が瀬戸口から突然家に飛び込んできたとか、東京都下板橋坂中山道の道端に立っていた縁切榎がその前を通った嫁入り行列を妨害したとか、伊豆新島で無実の男が処刑され、墓の横に榎になって化けているとか。これらの件については前川文夫博士がその著書で詳しく説明されているので、その要点だけを抽書きすると、オシュクジとミシャクジの関連した信仰上の話でタタエ(祟り)とも呼ばれている巨木に漏矢神が降臨する。柳田国雄の<神樹篇1915,>に諏訪神社の行事を書いた一宮巡詣記にタタイ木としてマユミとトチを挙げているが、前川博士はエノキであろうと推定。エノキは大木になると、その根本に空洞が出来やすいこと、一里塚に道祖神が祭られること、朴の字は占いと関係のあること、がタタエになる条件に成りうるとのことである。

次ぎの榎の関わる喩話は、善人を助け悪人を懲らしめるの、仏教思想に基づいている。下総本八幡の田圃の真中に榎の巨木があった。所の肝煎惣兵衛は或る朝、田圃を見回りに出てみると百姓共が集って騒いでいる。それは榎が枝を張って田圃を日陰にするので切り倒すのだという。惣兵衛は驚いて、切り倒すのを止めさせ、枝の一部を刈り取るに留めさせた。数か月経って、村に賊兵が侵入して来て食料を略奪した上、惣兵衛始め百姓らを榎の枝に縛りつけて吊した。惣兵衛らは息苦しくなっても身動き出来なかったが、榎は枝を自ら切り落とし、百姓らを地上に降ろした。その際、賊兵の頭に枝がゴツンと当たり、気を失ってしまったと。


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