Ca-01. いね(こめ)

Ca-01.

いね・伊禰・以禰

稲・イネ・コメ

漢名:トウ・禾・穆ボク

[万葉集記事]

{01-0006比米}

07-1353早田

08-1520稲むしろ

{08-1624早田}

08-1625早穂

10-2117早稲

10-2230稲葉

10-2244

10-2251早稲

11-2643稲むしろ

14-3386早稲

14-3459

14-3550

16-3848

以上 14件


外に

04-0776

14-3418







2件



斎種ユダネ

07-1110

15-3603







2件



02-0088

02-0114

08-1567

08-1624

09-1768

10-2176

10-2246

10-2247

10-2256

17-2943











10件

合計 28件

()10-1624

坂上大嬢、秋稲の縵かずらを大伴宿禰家持に贈る歌。


吾之蒔有 早稲田之穂立 造有蘰見乍 師弩波世吾背


わが業なる早田の穂立造りたるかづらぞ見つつ偲ばせ吾背

()10-2251

秋の相聞歌、


橘乎守部乃五十戸之 門田早稲 苅時過去 不来跡為等霜


たちばなを守部の里の門田早稲刈る時過ぎぬ来じとすらしも

()14-3550

相聞歌、ある本の歌に曰く


於志弖伊奈等 伊禰波都可禰杼 奈美乃保能 伊多夫良思毛 与伎曾比登里宿而


おして否と稲は搗くかねど波の穂のいたぶらしも昨夜ひとり寝て

()16-3848

前書 夢いめの裏に作る歌一首


後書 忌部首黒麻呂いむぺのおびとくろまろ夢のうちにこの恋の歌を作りて、友に贈る。覚めて誦み習はしむるに前の如し。


荒城田乃 子師田乃稲乎 倉尓挙蔵而 阿奈于稲志 吾恋良久者


新墾田の鹿猪田の稲を倉に蔵みてあなひねひねしわが恋ふらくは

注釈

() なり=職業、多くは農業のことをう。早田=早稲わせをつくる田。かづら=頭髪を飾るための付け髪。ほたち=立ち揃った稲穂飾

() 水田に寄せる八の歌22442251のうち、 たちばな=守部の枕詞?守部は地名か(所在不祥)

() おして=強いてする。いたぶらし=甚振らし、いらいらと心が落ち着かないさま。いたぶる=横になる。波の穂=いたぶらしに係る枕。かね=将来の望みをかける。

() 新木田=新しく開墾した田。倉にあげて=税を収める意もあり。あな=強い感動で発する語:あら、まあ。ひねひねし=年を経ている。

[概説]

集には、稲と早稲の外、米(比米)の名前もある。稲いねとは米が実るイネ科の草本で、その種子が比較的早期に熟すものを早稲わせと云い、それを作る田が早稲田わせだである。食料となる子種を コメ と、それを実らせる草を イネ と呼び、種と植物の夫々の名前を別けるとは珍しい。それは米を格別な代物として扱った所以と窺え、然様に区別して呼称するのは、米を主食とするアジアの一帯の民族のみである。例えばイタリアでは米も割合に食卓に上がるが、米も稲もリソであり、その調理したものがリゾットとなるのである。日本では米を育てる植物が稲で、食用とする部位が米であり、食事に際して調理すると飯になる。

日本人は古昔、米()を格別扱いとし、その根を除く全草の各部位も全て利用した故に、その部位を稲・?・粳・禾夫・藁・秉・穂・品・籾・芒・禾舌禾曾・糠などの関連字が見参する。ある本の注釈では「米は稲殻の脱穀(籾殻を除いた)したものをいい、脱穀してないものを籾モミまた粟ぞくという」と説明している。 という字を分解すると八十八となり、米を作るには88工程の労働があるのだから粗末に扱うことは、もったいない、というのが日本人の米に対する信奉的感覚であった。人間も八十八歳になれば、酸いも甘いも人生を経験して、目出度い米寿となる。

漢字の米は、ベイの音とコメまたヨネ・マイの訓読みがあり、中古・中世の漢文訓読は和文的にはヨネが多いに対し、説話や故書はコメである。<日本書記(720) 皇極>の歌謡に "岩の上に小猿渠梅コメ焼く 渠梅だにも食げて通う女かましのを" [渠梅をコメと読む] <土佐日記(935>には "昨日釣りてり鯛に銭なければ よね をとりかけて" とあるから両方の読みが成立する。<十巻本和名抄(935)>"米陸詞切韻之米 穀実也" 米の方言はあまりないのであるが、沖縄では juni であり、沖縄語の母音は中途半場であるので、ヨニと聞こえる。米山ヨネヤマ・米沢ヨネザワ・米原マイバラという土地がある。即ちヨネはイネ同じ語源から発しており、マイはベイからである。

ポリネシア語で、タロイモのことをコメと言い、米のことをウルという。東南アジアでパンノキの実をウルというは日本語のウルチと似たところがある。

日本語

中国語

韓国語

゙トナム語

イン゙ネシア語

ラテン

ミャンマー語

イネトウ

dào・稻子dàozi

lúa

padi

oriza

ဆန်စက်ရုံ

コメベイマイヨネ

(稻米dàomǐ

gạo

beras


ဆန်ုံဆန်ုံ

タイ語

モンゴル語

ヒンディー語

゙リシャ

トルコ語

アラ゙ア語

ต้นข้าว

тутарга

चावल के पौधे

Ρύζι

pirinç bitkisi

نبات الأرز

ข้าว

цагаан будаа

चावल

Ρύζι

pirinç

الأرز

英語

゙イツ語

フランス語

イタリア語

゚イン語

゙ンマーク語

ロシア語

rice

der Reis

riz

riso

arroz

risplante

рис

rice

der Reis

riz

riso

arroz

roris

рис

現在、世界で人類が食用としているのは、①oryza sativa ,oriza glaberrimeの2種であるが、その他の現存する野生種は次のようなものがある。

稲学大成;松尾孝嶺 編 農山漁村文化協会 1990

oryza barthii A.Chiv.

o.breviligulata A.Chevet Roehv.

o.australiensis Domin.

o.eichingeri A.Peter.

o.officinalis.Wall

o.minuta Presl.

o.latifolia Desv.

o.alta Swallen

o,grandiglumis Pred.

o.ridleyi Hook

o.longiglumis Jansen

o.brachyanantha A.Chevet Roehv.

o.meyeriana Baill.

o.schlechter Pilger.


日本の神話:天孫降臨の段で、天照大神の詞 「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、我が御子の知ら国ぞ」 に拠って、ここで 水穂は水稲のことであり、これより稲は日本人の主食として食生活に常習するものとなった。更に米は<日本書紀>に、万葉集時代の<持統記><故に務大肆、并て糸也◇フトギヌ五匹・綿一十屯・布三十端・稲一千束・水田・四町賜ふ>の如く、経済価値の基準となって、これが江戸時代まで続き、大名の格は加賀百万石とか、十石召抱の足軽などと米の単位を以て財力を呼ぶようになる。

徳川時代は米の出来高をもって封高を表示したが、これは籾の年間産出石をいうので、これを精米したときは大凡その6割である。1石=10斗=180.39


さて、古くは<古事記>の神話に、速須佐之男命が大気津比賣おおけつひめを殺したとき、<頭に蠶生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき>と、五穀の種子の評価が為されている。このように、米は食料としても別格はであり、昔時食事時にこれを零したりすると、<目が潰れる>とまで、神聖視されていた。農家は米の生産に執着し、地主と小作人の農政大系が出来あがり、農民は米の不作のときは、<遠野の米筒振り>などの哀話にあるように悲惨なものであった。

<古事記 上>

食物乞大気津比売神、爾大気津比売神自鼻口及尻、種々味物取出而、種々作具而進時、速須之男命立伺其態、為穢汚而奉進、乃殺其大気津比売神、故所殺神於レ身生物物、 中略 二目稲種

<日本書記 1 神代>

一書曰、天照大神、復遣ニ天熊人ー往看之、中略 保食神実巳死矣、唯有其神之頂化為ニ牛馬 中略 腹中生レ稲

<日本書記 2 神代>

一書曰、天照大神手持宝鏡、授天忍穂耳尊中略 又勅曰、以吾高天原所御斎庭之稲穂亦当御於吾児

<日本書記 1 神代>

天照大神以粟・稗・麦・豆、為陸田種子、以レ稲為ニ水田種子,因定二天由君既以二其種、始殖レ予狭田及長田-,其秋垂顆八握、漠漠然甚快也。

<日本書記 15 顕宗>

白髪天皇二年十一月、播磨国司山部連先祖伊興来目部小楯、於赤石郡、親弁新嘗供物、適会縮見屯倉縦賞新室以レ夜継 中略 億計王起舞既了、天皇次起、自整衣帯、為室寿曰、中略 出  雲者新墾、新墾之十握稲之穂、於浅甕醸酒、美飲喫哉、下略

<出雲風土記 飯 石 郡>

多禰郷、属郡家、所レ造天下、大神大穴持命、与須久奈比古命、巡行天下ー時、稲種堕此処、故云種、神亀三年改字多禰

<延喜式 8 祝詞>

祈年祭 御年皇神達ノ御前ニ曰ク、皇神等ノ依サシ奉ル、奥津御年ヲ手肘ニ水沫画垂向股ニ、泥画寄シ、取作ル、奥津御年ヲ、八束穂ノ伊加志穂ニ皇神等ノ依サシ奉ル初穂ヲハ千八百ニ奉置シ瓱閉高知、長瓦満双シ、汁ニモ称辞意奉ル

<神代 巻藻塩草 2>

稲は命の根也、熱田に殖ゆ、

<東雅 13 穀 蔬>

イネ 旧事記に、五穀は火神軻偶突智の子、稚皇産霊神の化生せし処也とも、また葦原中  国の保食神の化れる所なりとも見えたり、古事記には軻遇突智の姉大宜津比売神の化け所とも見えたり、太古の俗いひつぎし所、其説既に同じからずとは見えたれど、日神其種子をとり得給ひて、天狭田長田に殖しめしより、世人初めて粒食する事を得しといふに至ては、異なる説ありと見えず、稲の如きは、保食神の腹より生まれしとも、大宜津比売神の目より生りしともいふなり、名付けてイネといひ、亦転じてシネといひし義の如きは不祥。倭名抄に按ずるに稲熟に早晩ありて、その名を取る、早稲はワセといふ、晩稲はオクテといふ、ワセといふはワはハなり、ハといひワといふは転語也、ハとは早といふが如し、セとシネといふ語を合呼びし也、オクテ又はオシネといふ也、オクといひオシといふ、共に是晩の義也、テといひネといふは、皆転語にしてシネといふ語を合呼びし也、

<倭訓栞 前編 3 >

いね 稲をいふ、飯根イイネの義なるべし、イナともよむは転ぜる也、後漢書に日本宜稲と見ゆ、物理論に、稲者漑種之の総称といひ、爾雅翼に、稲米粒如霜、性尤宜水、一名禾余、而有不レ黏、今人以レ黏為、不黏為レとみゆ、はもち、はうる也、

<本朝食鑑 1 >

伊禰、釈名 按、稲者漑種之総称也、又言通呼糯二穀中略 集解 中略 夫稲本邦古来為米之総称、而農家別謂在田茂生者為レ稲、米之不レ脱稈芒穂禾孚為レ籾、訓毛美、此亦農家之通称也、稲有早中晩之分、早稲者熟実少、若雖レ有実多稲美者、不能久保、中晩者雖レ遅実多稲実、就中以晩白米第一上餞之食

<傍廂 後 編>

稲穀 稲しは田に生ひ立ち在るをいふ、禾アワとは刈りて根なきをいふ、籾モミとは藁を取去りたるをいふ、米とは殻を去たるをいふ、糲とはいまだ舂かざるをいふ、粱とは既につきたるをいふ、武家の知行万石千石などといへるは籾なり、殻を去りて米とすれば万石は四千石となる。故に千石といへるはよつ物にて即千俵なり、

日本の古語で、"とみくさ""みずかげくさ""あきまちぐさ"と呼んでいたのは稲のことらしい。

<八雲御抄 三 上 地 儀>

中略 民の草 とみくさ なかひこのいね

<藻塩草 3 地 儀>

田 富草 すめらみ草

田 水かげ草 是も夏の田也、或いはただいねの名前ともいふ、

田 たのみ草 いね也 中略 秋待草

<倭訓栞 前 編 18 >

とみくさ 富草と書り、梁塵抄に稲をいふと見えたり、されば相模家集に、み山なるとみくさの花といひ、詞花集に 打むれて高倉山につむものは あらたなる世のとみくさのはな と読めるは山に意あるにあらず、高倉山は伊勢外宮の山也、

<詞林采葉抄 9>

水陰草当集第十巻歌云、 天川水陰草の秋風に なびくをみれば時はきにけり 此の水陰草は、稲の一名と見たり、其故は、銀河天水の恵にて、苗代の始より、稲花成熟の時まで雨露の恩に浴する也、是天漢の水陰の草と云心なり、

<蔵王和歌集 夏>

とくうへて吾田の表に秋まちて 水かけ草ぞ刈しほとなる

水かけて秋まつ草の よなよなに 露とみゆるはもしほたるかも

<新勅選和歌集 夏>

天河水かけ草に をく露や あかぬわかれの涙なるらん

定説となっている世界にある2つのイネ属のその一つは①アジアイネ Oryza sativaa L. であり、これは世界に広く栽培され日本にも栽培されているであり、もう一つは余り広範囲でないが西アフリカのニジェール川中流域にのみ見られる② アフリカイネ O.glaberrima Steud. である。近年にいたり、この形態的研究が進み、①の祖先種は東南アジア・南アジアに自生する O.pernnis Moench であり、②の祖先種は西アフリカに自生する O.breviligulata A.Cheval.et Roehrich であることが、ゲノム分析で判った。この発祥地は未解明であるが、オリザ・ペレンニスについてはインド地域とする説、雲南・アッサムの丘陵地帯とする説があるが、実証的研究ではインド説が有力である。

而して、栽培イネの考古学的研究では、ガンジス川流域、インダス川流域の遺跡から紀元前40003500年頃に導入され、中国では揚子江流域で紀元前22001700年頃であったというのが定説であった。然るに、その詳細は後に述べるが、200411月に中国の玉蟾岩遺跡(湖南省)から12000年以上も前の炭化米が発掘され、この定説は揺らぎつつある。

日本への伝播は、相当以前、縄文晩期までに中国を経て渡来していたと思われ、約3600年前の蛭原遺跡から、オパール化した籾殻が出土した証拠がある。それと、1992年岡山県総社市南溝遺跡から約3000年前の縄文時代後期の籾痕の残った土器を発掘している。

イネ属の籾殻には珪酸を含有し、これが化石となったときオパールとなるので、偏光顕微鏡で確認できる。この出土品は陸穂らしいが、2500年前の縄文時代の菜畑遺跡(佐賀県 唐津市)で水田跡が見つかっているし、夜臼遺跡(福岡県 粕屋郡)で籾の跡がついた土器、吉野ヶ里遺跡(佐賀県:弥生時代後期)で稲作の農具、が発掘されている。さらに驚くべきことに、北国の津軽平野で、1900年前の垂柳遺跡から小区画の水田294枚と焼米が発掘されている。同時代の水田跡は、日高遺跡(群馬県)、熊野洞遺跡(高知県)、登呂遺跡(静岡県)、服部遺跡(滋賀県)など各地で発見されていることから、日本住民は相当以前から米を主食にしていた事が伺える。更に最近の研究発表では、縄文時代中期(約5~4千年前)の土器に稲モミの圧痕がついていたことが発表された。オパール化石は微小なため後世の紛れのあることも否定できなかったが、土器の表面を電子顕微鏡などで観察し圧痕をみれば農耕の穀物がわかるというもので、岡山県溝手遺跡(BC10002000)熊本県大矢遺跡(BC20003000)の発掘土器で確認されている。

大陸との交流はルートは、これまでの主説では遣隋唐使を以て初始と考えているが、それ以前にそれも相当古くから、中国山東省から北九州経由ルート、朝鮮半島から島根鳥取ルートなどがあったと推定される。大和民族は文字を中華国から受け入れたに対し、出雲民族などは文字がなかったので確証を掴めないのであるが、それ相当の文化を有していたらしい。そして更に越の国辺りにも別群民があったと説く学者もいる。これらは朝鮮を経由して受け入れたものであろうが、中国の稲作よりも早いとの奇妙な結果ともなり、南方諸島から直接伝播したのではないかという推論、それは遺伝学から古代米に南方系のDNAが確認されたためである。しかし、ただ現在の稲は何代もの品質改良されたものであって、いつの時代にか混入する可能性は高いくこれらの推論の探索はなお継続している。

話は変わるけれども、当時の原始米は色米であったろうと説く人があり、古代を偲ぶ会などで赤米を試食したりしているけれども、赤米・黒米はインドネシア・タイなどの奥地で今も栽培されており、格別に変わったものでもない。

タイのチェンマイから北方の山岳民族を訪れたことがあるが、彼らは非常に歓迎してくれて、赤米を食わせて呉れた。洗った米を竹ヒゴで編んだ葛籠に入れて蒸す調理法であるから、オコワと似ている。色は日本の赤飯のようで、食味はモチ米風、粘りがあり、ほのかに甘く、なかなかの美味であった。ただ、現地の女性が横に侍り、喫食の世話をしてくれるのであるが、サービスが良過ぎて、彼女らは三本の指で飯を摘まみ、こちらの口まで運んで呉れる。当方は顎を動かしておればよいのであるから、大名気分である。ところが見て驚いた。彼女らの手は真っ黒のみならず、指先に爪垢さえ溜まっている。恐らく農作業が忙しいのであろう、その様なときは、洗っても綺麗にならないものであることは十分承知している。 断っては親善外交に悪いと思って食事を続けたが、赤飯アカメシが垢飯になろとは、下手な洒落かナ。

元来イネは南方系の植物であるから、最初は九州で栽培されていたものが、序々に近畿・東海・関東から東北地方へとも広がったと伺える。品種の改良と栽培法とを適応させて、現在は北海道でも稲作が可能となったが、その改良、栽培技術の進んだのは戦後であって、それまでは東北地方特有の夏寒波による冷害の悲劇も農業歴史に残っている。

一方イネの西方への伝搬はアレキサンドロス大王の東方遠征以後であって、インドからイラク・シリアと順次西方に伸び、ユーフラテス川流域では紀元前400年、エジプトでは紀元7001000年頃に稲作が行われている。イタリヤには1468年に栽培の記録があるように、近東以西のコムギ主食地域ではコメはそれほど重要でなかった。新大陸のブラジルには16世紀始にポルトガル人によって伝えられ、アメリカのカルフォルニアは20世紀になってからである。

大和民族は米を主食に採るためか、米に対して古来から特別の感情を持っており、加えて第二次大戦時の食料事情があって、日本では特別の農業政略をとっていたものを、1985年頃、ある民間業者が法律無視して、自由米なるものを打ち出し、それによって現今は、政府の統制米など忘れ去られている。現在の米は、味を評価の第一主義でもって自由価格で競争しているけれども、安価なカルフォルニア米などの外国産でも日本人の食味にあわせて結構美味しくなっている。問題となるのは、日本の農事試験所で折角苦労して産出された新種の種子を流用して生産しているのだから、美味しいわけであり、これを広大な土地で機械化して米を生産するのであるから、安価に提供できる筈である。また、近年普及し始めた北海道産米は結構美味しい。

概して農作物の味はある程度寒いところが美味になるという俗説がある通りである。

さて、話を戻して、イネと言う言葉は全国で通じるが、方言は、とみくさ、たのみ、やしね、みしね、しね、いな、等がある。語源は、①イヒネ(飯寝)の約<言元梯・和訓栞・大言海> ②イヒネ(飯米)の意<名言通> ③イノチノネ(命根)の略<和句解・三省録・本朝辞源=宇田甘冥> ④イキネ(生根)<本朝辞源> イキネ(息根)の約<日本声母伝・古言類韻> ⑥イツクシナヘ(美苗)の約<日本釈名・滑稽雑談・和訓義解> イは発語イヅル()の意。ネはタネのネ<東雅> ⑧イヒノメ(飯芽)の義<日本語原学> ⑨秧ナエの別音Inが変化した<日本語原考>。等々

これと同じくして、コメの語源は①コミ(小実・小子)の転<日本釈名・言元梯・和訓栞> ②ニコミ(柔実)の略転<大言海> コはニコ()の上略、メはニと通い、またイネの略<延喜式祝詞解> ④コモミ(藁実)の転<類聚名物考> ⑤その形からコメ(籠目)の義<箋注和名抄> ⑥もみの中にコモルところから<日本釈名・紫門和語類集> ⑦マコモの実も食うが、此れより粒が小さいのでコメとなった ⑧家内のゲコの人数も多いところから、ケコミセの反<名語記> ⑨ケノミエ(食実得)の義。あるいはクヒモノザネ(食実主)の義<日本語原学> ⑩形が目に似ているからコメ(小目)の義か、また人命を延ばす徳をこめる<和句解> ⑪心をコメて作り。精げるところから<本朝食鑑> ⑫コメ(小米)の義<明言通> ⑬コメ(好米)の義<和語私臆抄>、漢字で粳米、米亢 Komeの訓<与謝野寛> ⑭コは食うのクの転、メは芽の義<日本古語大辞典> ⑮イネ・ヨネに対してコメはコモル、コムル等の語と音の構成が近く、稲の神の祭りと関係があった<瑞穂の国=柳田國男>等。揚げれば切りがない。

日本の古文典に最初に現れるのは冒記の<古事記>にあり、また<風土記>に餅を的として弓で射たとの記述と、奈良時代に粳ウルチ・糯モチが栽培、平安時代に早稲・中稲・晩稲などの品種ができ、鎌倉時代中期に陸稲が出現した記録がある。また古代に言伝えのある色米・香米・大唐米なども見える。


<出雲風土記 飯石郡>

多禰郷、属郡家、所天下大神大穴持命、与須久奈比命、巡行天下ー時、稲種堕此  、故云レ種


<東大寺正倉院文書 10>

大倭国天平二年大税帳 山辺郡 天平元年定、大税穀捌伯伍拾伍角斗貳升捌合 中略 稲貳仟壱伯肆拾肆束 中略 用貳伯束 赤搗米四角斗料八十束、小麦壱角斗 直廿束、賀麻伎種稲百束


<草木六部耕種法 12 需実>

稲種秘訣 稲種ハ其品類極テ多ト雖ドモ、古代ハ出雲稲四種、古志稲二種、日向稲四種、笠縫稲二種、都合十二種ノミ、後世ニ至ルニ及テハ乱名頻リ興リ、紛錯混乱殆ド記載スベカラザルニ至レリ、中略 所謂、出雲稲四種トハ赤粳、赤糯、黒粳、黒糯、是也、古志稲二種ハ沼垂粳、沼垂糯ナリ、日向稲四種トハ白粳、白糯、青粳、青糯ナリ、笠縫稲二種トハ鶴喙粳、鶴喙糯是也、以上十二種は上古ヨリノ稲種ニシテ今ノ世ニ耕種スル諸稲ノ根元ナリ、


<耕稼春秋 6>

石川郡稲名 都合八十三色、寛永之頃御郡に造る稲を記、総じて稲の名は所によりて替る故、年々に異名多なる。

<新撰字鏡 禾>

俗作粳、同加衡反、不黏稲也、与禰志良久、又奴可


<新撰字鏡 米>

米菓 毛知米


<重修本草綱目啓蒙 17>

ウルシネ ウルゴメ ウルノコメ ウルチ 一名大米 散米 米一名玉粒才乙匣阿木、郷珠、長腰、日々食用の米なり、早中晩の分あり、ワセを早粳と云、六十余種あり、ナカテ を中粳とも遅粳とも云、八十余種あり、オクテを晩粳と云、八十種許あり、


<倭名類聚抄 17 >

本草云、粳米一名米匕 後略 米菓 蒼吉頁編云、而^米之黏也、


<類聚名義抄 7 >

? 音 庚 ウルシネ 、アラヌカ、正亢ウルシネ、秔米屎 米止 粱、米、 米匕モチノヨネ


<東雅 13 >

稲イネ 中略 粳は一名米匕、ウルシネといふと注せしは、ウルと云しは潤也、潤の字読てウルヒといふが如き即是也、倭名抄に其実の光潤うるを云ひし也

稲イネ 中略 和名抄に米而^は米の黏也、モチノヨネと注せしは、モチとは即黏するをいひしなり

?

<倭名類聚抄 17 >

唐韻云、? 青稲白米也、音兼、漢語抄云、美之呂乃以禰、


<東雅 13 >

稲イネ 中略 倭名鈔に?は青白米也、漢語抄にミシロイチといふと注せしは、其実の白きをいひ しなり、香米


<和爾雅 6 米 殻>

芳米カバシコ

<大和本草 付録1 >

凡異邦の国南国皆種之為粮、其価甚賎、毎百斤直銀二三匁、今日本の諸州あまねく種ふ、早く熟す、最民用利あり、性かろくして病人可食久に堪ふ、籾にて貯えれば二三十年を保つ、占稲


<大和本草 4 >

本艸又占稲と云、時珍云、粳而粒小、其熟最早、六七月可収、有赤白二色 近世異国より来る故、国俗に大唐米と云、西土の俗タウボシと云、色赤して小粒なり、飯にしてねばりなく、味淡くして消化し易く性かろし、痰多く積滞ある人、飯として食すべし、又コガシとす、臘水に一両日浸して後、日に晒し収置、煮て食すれば瀉痢を止む、又の陳倉米を薬を丸する糊とするに宜し、 本艸時珍が説に陳倉米に用之蒸晒為之といへり、殻ともに貯へ置けば十年二十年を経ても不腐、味淡きゆへ虫はまず、鴨にかへば卵を多く生む、旧殻尽る時秋早く熟し、実を収る事、米硬くして他粳より飯多し、故民利之多くつくる、をワセゴメと訓ずるは誤りなり、田にあるとき台風にあえば脱やすし、又白米あり潔し、形状同じけれども、実を収る事、赤米より小し、故に農多く植えず、本艸に其種占城より閘^に来る、赤白二色あり、粳と大同小異といへり、凡諸稲其品甚多し、然其形色性味相似たり、只秈のみ諸稲と不レ同、今諸州各処皆之をくふ、

大唐米

<和漢三才図会 103 >

 占稲 早稲 俗云大唐米 又云野稲 本綱、粳而粒小、始自^人得 種於占城国、宋真宗遣使就^三万角斗、分給諸道種、故今皆有之、高仰処倶可レ種、其熟最早、六 七月可レ収、有赤白二色、与粳大同小異、按、本此天竺之国、而宋時初種于中華、而伝於本朝、故呼曰大唐米、今亦西国多種之、能繁茂而 早熟、凡粳米有赤白二種、特此米赤者多、白者少、故通称〓禾非、刈収盛籾於鍋、入水少許、蒸熬晒乾磨龍 以去禾孚為レ来、如不蒸則搗易砕、是一異也、日向産烏赤色良、薩摩産鮮紅色次レ良、凡赤米能搗去レ糠、乃白 色帯ニ微紅交、為飯能倍殖不レ粘、温時有香気甚佳、冷則風味味粗、而食レ之易レ飢、以為賤民食、又有  糯、謂之大唐糯、而有赤白二種、共稍粘、


<重修本草綱目啓蒙 17 麻 麦 稲>

タイトウゴメ トウボシ トウボウシ 一名占米 米占 秈 赤白二種あ り、粳糯の分あり、皆性軽くして、病人の初句となすべし、柔かなる飯も冷になれば硬くなる、この種 もと舶来なる故、タイトウゴメと云う、唐山の大冬米を以てこれとなすは非なり、 増、米は皆早生にして晩稲なし、赤白の二種ありと雖も、白粒よりは赤粒のもの実多き故、多くは これを栽す。肥前蓮池より来る者を上品とす、中略 赤白二種あり、粳綬より来る者を上品とす、白粒より赤粒の二種あり、多くは皆二種ありと雖も白粒の者、夏月背西煎茶。美髯あり、

大人米

<重修本草綱目啓蒙 17>

粳 増、一種オホイネと云ものあり、苗の形尋常の者に同じくして高さ八九尺にも及ぶ、米粒の大さ常米 に倍す、中粳なり、近年種を伝て処々に栽ゆ、即集解時珍の説に、真蝋有水稲高丈許と云、又留青日 礼に、供大人米の名あり、曰摩掲陀国有異稲巨粒、号曰供大人米と云是也、又ー種コビトジマと称 するものあり、形状尋常の者に似て、水田に培養するとも、僅かに七八寸に過ぎず、その実大さゴマの 如し、近年種伝わりて盆に栽て愛玩す、

紫芒稲

<草木育種後編 下 穀菜>

紫芒稲 常の稲を植る法の如くなるべし、葉紫黒色なり、勢州にて此葉をとり、 紫色の染料に用ゆといふ、又糯米で芒なきものあり、火焼糯といふ、又芒あるものを長鬚糯といふ、

岡稲

<本朝食鑑 穀>

稲 種レ圃者曰岡穂又称岡稲、倶不レ宜、惟民食可レ足


<大和本草 4 >

占城米 陸田に植う、粒大なり、民俗には野稲と云、粳あり、糯あり、糯米は味かろし、 常のもち米は水に久しく浸して後に蒸す、俄に浸しむしては熟せず、之は水に浸して即時にむしてよく熟す。


<経済要録 8 百 穀>

旱稲は俗に畠稲と云う、此にも旱中晩及び粳も糯もありて、甚多種なるものなり、先年余(佐藤信淵)遊歴中に、諸国より此畠稲の種子を聚めしに、大平、治郎、五十日、熊糯、日陰早稲、堤固、 旱糯、霖雨早稲、振袖糯、波潜、八尺糯、等大凡十七種を得て、此を門人白井忠蔵と云う者に預け、此種子を失しなわざらんことを命ぜり、白井は上総国埴生の郡岩川村の豪農なり、

湖稲

<牧民金鑑 11>

明和五子年十月四日申渡書付各御代官所御預所村々地先海辺附遠浅の場所、並本田の内に、潮入場所、御取箇付無之場所は以来湖稲籾植付候様、村々吟味可遂候、海辺遠浅場所は稲刈株江居芥残寄州出来、追レ年地高に相成候得ば、本田御高入にも相成、 中略 葛西領村々地先海表江植付候処、湖稲出来いたし候、右軆海辺並潮入の場所吟味いたし、以来植付時節湖稲籾植付候様可致候 後略

早稲

<類聚名義抄 七 禾>

早稲ワセ 禾直 禾圭 禾翆 禾兼 禾童 禾^ ^


<倭訓栞 前編 37 >

わせ 倭名抄に、早稲をよめり、爾雅翼に、比小、其種甚早、今人為早稲と見ゆ、わははやの急語、せはしね反也、一説にわせは走る也、はしるをわしるともいふ、早く出る稲を走り穂といひ、凡て早く出る穀菜どもにはしりと言へり、歌にはやわせとよめり、

中稲

<書言字考節用集 6 生 殖>

遅稲ナカテ 中稲 時珍云、粳稲八九月収者、


<成形図説 16 五穀>

中手 中手稲 二番者 中稲、遅稲 半夏、中手は節中年稲にて、手は年の約たるなり、祝詞式に奥手のこと奥津御年とあるにて知るべし、年は勢と通ふがおえに、和勢ともいひ、又年稲を約めて志禰ともいへり

晩稲

<類聚名義抄 7 >

晩稲オクテ


<易林本節用集 遠 草木>

晩稲ヲシネ


<日本釈名 下 米穀>

晩稲 遅れて出る也、おそく穂にいづる也、では出なり


<円珠庵雑記>

オシネは遅い稲といふことを、その反しなれば、つづめて云へるなり、オクテは奥手にて異名なるべきを、おほくはオクテと読めり、


<傍廂 後編>

オシネとヲシネとは異なり、オシネは晩稲にておくてなり、早稲をワセと云ふ対語なり、ヲシネは小稲にて美称なれば、早稲・晩稲共にいへり、新勅選集、散木集などに、 わさ田のをしね と詠みしは早稲なり、新撰六帖に 浜田のをしね打ちなびき早刈しほに成りぞしにける とあるも早稲なり、続古今集に、 しら露のおくてのをしね云々 新続古今集に、 夕霜のおくてのおしね云々 と詠みしはおくて即オシネなり、オシネはオクテにて、ヲシネはワセ・オクテともにいへり、

<倭名類聚抄 17 >

唐韻云、 音呂、後漢書読於路賀於比、俗云比豆知、自生稲也


<類聚名義抄 3 >

木呆木呂オロカオヒヒツチ


<7 >

禾秀 俗 羊酒反、ヒッチ 穭 音 呂 ヲロカオヒ・ヒツチ


<日本釈名 下 飲食>

禾末ヒツチ 稲の再生して実なるを云、秋田を刈り水を落として後、干土より出て、実るものなればヒツチと云ふ、


<物類称呼 3 生植>

禾末ひつぢ 尾州にてひうちと云、佐渡にてままばえと云、伊勢白子にてにばんこと云、越前にてひとてと云、


<一話一言 2>

ひつぢいね 明の焦周が説木若に云、南海稲経獲再生、名稲孫穂禾犀、 これ今いふひつぢいねなり、按易説卦伝、其於稼也為反生ー、このヒタチはひつぢいねなるべし

米は米飯か粥にして主食にするほか、酒・味噌・醤油の原料に、菓子・糊など、また餅を製する。蒸したり煮たりした米を天日でからからに干して干飯ほしいにし、携帯保存食にする。精米の途中で採れる糠は肥料・飼料・糠漬に、また処理して良質の油が採れる。油を精製したライスワックスは化粧品に実用されている。籾は軽くて通気のよい詰物であり、藁は綱・俵・筵などを編み造るので前草全く無駄がなく利用できる。然るに最近は省力化のため、採種の際、機械が細裁して田圃にばら蒔く様になっている。或いは田畑に積んで燃やしたりして逆に邪魔物に扱っているのは残念なことである。

稲茎

<古事記 中 景行>

於〓是坐レ倭〓后等及御子等諸下到而作御陵、即匍〓匐廻其地之那豆岐田而、哭為〓歌曰、那豆岐能、多能伊那賀良爾、波比母登富呂布、登許豆良


<倭訓栞 中 2 >

いながら 稲茎の義なるべし、 いなくき 稲を刈りたる跡のかぶ也


<類聚名義抄 7 >

稈 禾干 禾藁 禾吉 禾祭


<倭名類聚抄 17 >

稲 薩王旬ぬ云秉禾束也、四声字苑云、禾斎 刈把数也


<箋注倭名類聚抄 9 稲殻>

按伊奈太波利、蓋稲手張之義、謂束レ禾盈握也、中略 按説文秉、禾束也、从又持禾、薩氏蓋依レ之 按稲曰束、見令式、謂所レ束稲也、当時田野人或従禾束用レ之為束レ之々也、束或作レ禾束集韻、新井氏曰、禾束字当多波奴中略 広韻禾斎、刈把数也、与レ此義同、説文、禾斎、穫刈也、

<倭訓栞 善 28>

穂は火より転せり、穂の出始める色皆赤し、稲穂を本とす、貫之集に、 出まもる家 はある所 と見えたり、神代紀に〓をよむも同じ、江次第に苅レ本謂之稲、切レ穂謂、本レ国司貯積之 総名也と見えたり

<倭訓栞 前編 6 >

かひ 日本紀に牙字をよめり、芽に同じ、甲の音転もあり、日本紀の鹿鹿元い元


<地方新書>

永はのこと、同韻なれば仮借して省画の永字を用いるなるべし、中略 永は普通の俗書に永 楽銭より起こるとするは当たらず、未だ永楽の年号なき時より永銭の号あり、農政座右に水府薬王院文 書に銭といふことあり、又鎌倉八幡社人大伴忠雄が相模志料に、永高の永、旧は〓なるべし、延喜式和 名抄等に〓稲又本稲本〓等の名あり、終に田畑の高を何貫文と云名はこりしならんと、一段二百五十歩、一歩二把づつの稲把を刈りだし、此の一把より二升づつの籾を出し、米として一升を得るなり、此直〓 銭一文なり、二百五十歩は二百五十文、是即ち百疋也、

<類聚名義抄 7 >


<9 >


<日本釈名 下 米 穀>

モミ もゆる実也、もゆるはおひ出るを云、もみをまけばもえ出づ、からを去たる米をまきては生せず


<東雅 13 穀蔬>

モミ 倭名抄に穀はモミ、日本紀私記に続てタナツモノといふと注せり、其義は並に不祥、モミとはモはモエ、モエとは萌也、ミは実なり、其の萌芽を発すべき実をいふなり、穀の字の如きは五穀と云い六穀といひ、八穀九穀なども云ひて、百穀に至りぬれば凡穀種すべて呼びて、後略

<倭訓栞 前編 23 >

のぎ 新撰字鏡に芒をよめり、芒刺をいふ也、のげ のぎの俗也、


<東雅 13 穀蔬>

中略 倭名抄に、芒はノキ、禾穂芒也と注せしは、ノとは直也、キとは凡物の光鋭なるを古語にはキといひ、ケといひけり、

<類聚名義抄 7 >

二正、音比之去声、和名シヒナセ、シヒタ


<東雅 13 穀蔬>

モミ 倭名抄に 中略 粃はシヒナセ、穀実但有皮而無米也と注せしはシヒナセは、猶シネナシといふが如し、其稲実のなきをいふなり、

米舌

<倭名類聚抄 17 >

米舌 唐韻云、音活、漢語抄云、乃古利之禰、春穀不潰物也、


<箋注倭名類聚抄 9 稲 穀 具>

按乃古利之禰、残米之義、謂穀為米、猶有未レ脱皮者也、今俗呼阿良、糠、米會


<倭名類聚抄 17 >

中略 爾雅注云、糠 音康、和名沼賀米皮也


<箋注倭名類聚抄 9 稲 穀 具>

按糠、則知糠亦阿良奴加也、曰米、即精米上細糠也、李時珍曰糠諸粟穀之吉殳也、其近米之細者為、是可以充古奴加也、


<類聚名義抄 7 >

禾會 音会、ヌカ、アラヌカ 禾曹スクモヌカ 禾康音ヌカアラ、


<7 >

古行反、音庚、アラヌカ 米亢米屎 二俗 糠康ヌカ


<東雅 13 穀蔬>

中略 ヌカとはヌク也、脱ヌクなり、其実の脱けしをいふ也、日本紀にては糠読みてカラと いふ、カラとは穀皮なり


<本朝食鏡 2 華和 異 同>

糠者諸米之殻、而本邦謂之荒糠、其近米之細者為薄之義也、又名米皮糠、今本邦称糠者、皆近米之細糠也或曰倹年人多交以〓屑食、和名剤蒸煮以救餓、此本邦民ア間又然矣

[植物]

イネ Oryza sativa L. (アジアイネ)

アジアイネの原産地はインド・マレーと言われているが、長年紀にわたり人工的に改良され日本だけでも一時4000種以上の品種があったと推定されるほど、多様であるが一般種では、一年草として取り扱われる。しかし熱帯では3毛作をするし、刈取った後株から新芽が伸びて結実するのもある。イネは6程度出葉した頃から順次数十本の茎を分岐し成長する。草丈は短稈種で5070cm、長稈種で80120cmになり、茎には少数の節がある。葉は互生して付き、細長い線状で長さ3050cmで縁は細かい刺があり、先は尖る。茎が伸びきると、留葉と よばれる最上部の葉の葉鞘から円錐花序を出して、多数分岐した各小枝先に小穂が1個づつ着く。所謂稲穂で、米が熟するにつれ米の自重で垂れる。イネは風媒花と見えるが、実は自家受粉であって雄しべが出るときに受粉するのである。1穂に100150粒の子実をつける。米の花をよく観察してみると、花は3ケあって第一の花のみが大きく第二第三の小花は退化して、辛うじて花頴かえいだけが残ったという形である。護頴と内頴の籾殻があって、籾米を搗くと容易に剥がれて、内部の子実(玄米)を分離する。玄米重は0.0250.03g/粒である。これを更に搗くと胚芽と果皮が剥がれて白米になる。白米は味はよろしいが、栄養分に偏重があるので食事には若干の副食で補うようにする。糠は飼料・肥料・糠味噌の外、化粧品原料となるライスオイル(ライスワックス)を採る。ヴィタミンB(チアミン thiamineaneurin)は糠にあり、白米のみを食すると脚気様症状となるので、一時、パン食にしないと頭が悪くなると騒いだ人もいたが、別ににそんなことはない。鈴木梅太郎博士(18741943)によってヴィタミンなる栄養素が見いだされたことで有名である。

[補足]

1. イネは風媒花でなく、自家受粉である。イネの花は籾の外〓エイが動いて開くのであるが、その時オシペが急速に伸びて葯ヤクが割れ、花粉がメシベについて受粉が行なわれる。開花後、数時間で外〓は閉じてしまう。その間に風が吹くと、外に出ていたた葯は振り落とされる。が天候の悪いときは開花せず、蕾のままで受粉するので、雄蘂は腐った状態で籾内に残っている。 開花のメカニズムは、花被に相当するリン皮が、天候の良い時に籾内で水分を吸って膨潤することによって、〓を圧し開くのである。

2. イネの開花は短日性である[キク・コスモス・ススキ]。長日性には[コムギ・ダイコン・ホウレンソウ・ネギ]。それで秋の収穫は早く短日条件の整う山間の田圃から始まる。生育条件は17゚以下にならないことで、春の放射冷却がありそうな夜 には水を張ったり、藁屑を燃やしたりして、寒冷地は大変な苦労である。イネの原生地は熱帯であるので、高温を好み、3032゚が最も生育がよい。

3. 以前の水田法では、苗代の苗作りが最も技術の要するところであった。低温では発芽が遅れのみならず腐ったりするので、夜間は水を張って温度の下がるのを防ぐのである。ところが発芽するとき、水深が浅いときは(12cm)根が先に出、深いときは葉 芽が先に出る。従って、浅水ぎみに育苗した方が丈夫な苗ができる。現今は育苗箱で温度管理の下に行われ、植苗機で田植えをす るので随分と労働が軽くなった。

4. イネ科植物のオシベは16本である。[6本=イネ、コムギ、クマササ。3本=ムギ、マダケ。1本=フサガヤ]

5Orizaの語源はイネを意味するアラビア語のeruz,またはギリシャ古語のoryzaから

6. 品種改良のため受粉作業を行うに当たり、実が小さいので操作は難しい。そこで、開花の前に蕾を4044゚の温湯に浸し、 メシベの受粉能力を残しつつ花粉を殺して、後に他のイネの花粉を掛けるのである。

7. 米のデンプン粒は数ミクロンと小さい。普通のウルチ米は澱粉がアミロースであるので、ヨード反応は濃青色に発色する。 モチ米はアミロペクチンが多いので、ヨードで赤紫色を呈する。アミロースは250300(光散乱測定では6000)D-グルコピ ラノース単位がα1→4グルコシド結合した直鎖構造をしている。アミロペクチンはα-1)グルコラビノースの14結合連鎖にα6分岐した構造分子で分子量は数百万に達する。

[周辺]

イネ科植物は単子葉植物MONOCOTYLEDONEAEに属し、元来は風媒花であるので派手な花はつけない。多くの品種と、個体数も非常に多く全世界を覆っている感じである。イネ科Poaceaeは以前は禾本科Gramineaeとも呼んでいた。全世界に約70010,000種ある。このうち、タケ・ササの類の扱いについて各論がある。昔は花が花〓につつまれるということで、カヤツリグサ科も含め〓花目Glumifloraeと纏められていたが、最はイネ目を独立して考えるようになった。イネ科は数亜科に仕分けされ、イネはイネ属に属する。イネ科の植物は土壌が酸性pH=3.5を好む。植物体に吸収した珪酸SiOを沈着させる特徴がある。この結果茎葉が丈夫になり、また堅く鋭いガラス質の小刺をつくる。

単子葉植物


頴花目Glumiflorae (カホン科)



(イネ目) Graminaceae



タケ科Bambusaceae














イネ科Poaceae


イネ属Oryza
















カヤツリグサ科Cyperaceae







イネ科

タケ亜科 Bambusoideae 45

イチゴツナギ亜科 Pooideae 247

ミクライラ亜科 Micraira 1

ススメガヤ亜科 Eragrostoideae 100

イネ亜科 Olyzoideae 9

サヤヌカグサ属 Leeria 15

イネ属 Oryza 25

マコモ属 Zizania 3

オリラ亜科 Olyroideae 10

キビ亜科 Panicoideae 96

ウシクサ亜科 Andropogonoideae 95

イネ科の特徴;小穂は1小花からなり苞〓は退化している。イネ属は世界に25種ある。野生種は、

O.grandiglumus Prod.

O.latiflla Desv.,O.subulata Nees.

O.barthii A.Chev.

O.parenis Moench.

最近のゲノム研究で、ペレンニス種がイネの祖先であると解明された。

我々が日常食している米は アジアイネO.sativao であるが、他に微量ではあるがアフリカイネO.globerrima Steud.が食料に供されている。O.sativaoにはインジカ米var.indicaとジャポニカ米var.japonicaがあって、さらに前者はインド型(南アジア型)と南中華国型(東アジア型)とに、後者はジャワ型(山地型)と日本型(高緯度型)とに区別される。日本型を栽培面からいうと、水稲うるち・水稲もち・陸稲うるち・陸稲もちに別れ、夫々膨大な栽培品種が試作されている。


japonica

indica

葉の形・色

狭い、濃緑

広い、淡緑

止葉との角度

広い

狭い

粒の形

広厚、横断面は丸

細長、横断面は細長い

芒の有無

or

無い稀に短

頴毛

多毛

小短

[名前]

[学名]

Oryxa=Or-zaアラビア語の米eruz、ギノシャ古語oryzaの意味、 sativo=栽培された。

[語源]

イネ=率寐いね、飯根イイネの約、 コメ="小実コミ"より転。"柔実ニコミ"の略。"噛む"の転。"籠もる"と同根

<大言海>

飯根の約、 恒山クサギを鴬の以比禰イヒネといひ、白英ヒコドリジョウゴを鶫ツグミの以比禰という。

<成形図説>

イネとは飯根なり、命を続の根にして其嘉木なるを稱めていふ。

[古語]

イネ=禾・伊禰・以禰・稲しね・伊奈・嘉禾よきいね・瑞禾あやしきいね コメ=よね・渠海・八木はちぼく

[別名]

イネ=たなつもの・富草・富種・御年・奥津御年おきつみとし・袖子そでこ・歳・年・見之禰みしね御稲おしね・水影草・三節草・秋待草・白芒しらのげ・仏法・長彦・たのしみ草・みかげぐさ・みまくさ

コメ=八木はちもく・稲米・菩薩・六十日白・田の実・うちまき

<日本書記 29 天武>

十年八月丙戌、遣多称島、使人等、貢多称国図、其国去京五千余里、居筑紫南海中 、切レ髪草裳、粳稲常豊、一殖

<日本釈名 下 米殻>

ウルシオ うるわしいね也、味よければ也

<易林本節用集 毛 草木>

 禾需モチヒ 稉☆

<毛吹草 3>

土佐 太米餅タイタウモチ、肥前 白太米シロタイタウ、日向 赤太米アカタイタウ、筑後 芳米カバシコ、豊前 芳米、

<八雲御抄 3上 地儀>

をしね、をくて、をそき也

[漢字]

イネ=稲・嘉栗嘉栗・嘉穀・敦実・禾罷椏・一粒万倍・瑞木  コメ=禾稲・粟米・稲粟・玉粒

[参考]

五穀=①麻、黍、稗、麦、豆、(漢書) ②黍、稷、菽、麦、稲、(漢書) ③大麦、小麦、稲穀、小豆、胡麻(漢書)  稗、 麦、豆、稲、(日本書紀) 稲、大麦、小麦、大豆、小豆(拾芥抄) ⑥禾、麻、粟、麦、豆(大和本草)

六穀=稲、黍、稷、梁、麦、荳

八穀=①黍、稷、稲、梁、禾、麻、荳、麦 ②稲、黍、稗、大麦、小麦、大豆、粟、麻

九穀=①稷、稲、黍、米、荳、麻、大豆、小豆、大麦(拾芥抄) ②黍、稷、稲、梁、三豆、二麦

七種粥=①米、粟、黍、稗、蓊、胡麻、小豆(正月十五日延喜式) ②米、粟、赤小豆、黍、稗、大角豆、菫子(正月七日

米また稲に係る漢字 いねトウ、禾いね禾余いねもちいね、穆いねホク なえオウ 禾亡ホウいねのもみ、籾もみ スイ禾終スイいなほ、采スイいなほ、稼いなほ、粳コウうるちうるちうるしね もち禾朮もち禾廬アカゴメ、糲クロゴメ 禾圭リクわせ しいな しいな ぬかコウ えいのぎ禾芒ノギひつじばえ、秋みのりあき あき ワラ ワラ カス カス、糀こうじ、糒ほいしし

[古典]

<祝詞 祈年祭>

皇神等奥津御年手肱水沫書垂、向股泥書寄取作奥津御年八束穂伊加志穂皇神等依左奉者、初穂千穎八百穎奉置…皇神等初穂、加牟加比、長御食遠御食赤丹穂ニ…

<神楽歌>

木綿しでて神のさき田に稲の穂のもろほに垂でよ枯ち穂もなく

<古事記上 五穀の起源>

又食物乞大気津比売。爾大気都比売、自鼻口及尻、…速須佐之男命、…所殺神於身生物者、於レ頭生レ蚕、於レ二目稲種、於レ二耳生レ粟、於レ鼻生小豆、…故是神産巣目御祖命、令レ取茲、成レ種。

中 垂仁天皇>

なづきの田の稲幹に 稲幹に 匐ひ廻ろふ 野老蔓

<日本書記5>

乃ち、粟稗麦豆を以ては陸田種子ハタケツモノとす。稲を以て水田種子タナツモノとす。即ちその稲種を又因りて、天邑君を定む。即ち其の稲種を以て、初めて天狭田及び長田に殖う。其の垂穎、八握に莫然ひ

垂仁>

忽に稲を積みて城を作る。其れ堅くして破るべからず。これを稲城イナキと謂ふ。

顕宗>

稲筵 川副柳水行けば 靡き起き立ち その根は失せず

宣化>

胎中之帝ハムタノスメラミコトより朕が身に泊るまでに、穀稼モミイネを収蔵めて、儲粮を蓄え積みたり。

天武>

秋九月に忍海造能呂オシノミヤツコヨシマロ瑞稲五茎献れり。

<風土記ー播磨(印南郡)>

萩原 米つく女たちの陰ホトを神功皇后のお付きの従者たちが交接して…

(託賀郡)>

賀眉の里 夜の間にその稲は成熟し、盟酒を醸して…

(賀毛郡)>

糠岡 大汝命が稲を下鴨の村で舂かせるに、粳ヌカが散ってこの岡に飛んできた故に…かせ

出雲(飯石郡)>

多裲タネの郷 大神大穴持命が須久奈比古命と天の下を巡って歩かれしとき、稲の種を此処で零した。故に種という。

(仁多郡)>

横田の郷 郷の中に田がある。四段ばかりにて横長なり。

<風土記ー山城逸文>

伊奈利の社…秦の公は稲や粟などの穀物を…それで餅を使って的とし弓を射たと白い鳥なり化けて、伊禰奈利生いねなりおいた。

<枕草子(95)>

稲といふ物を取り出でて、若き下衆どものきたなげならぬ、…

(213)>

見れば、穂に出でたる田を人おおく見騒ぐは、稲駆るなりけり。早苗取りしかいつのまに…

<古今和歌集(172)>

昨日こそ早苗とりしかいつのまに 稲葉をよぎて秋風のふく

(307)>

穂にもいでぬ山田をもると 藤ごろもいなばの露にぬれぬ日はなし 読み人しらず

(504)>

ひとりして物を思えば秋のよの 稲葉のそよといふ人のなき

(803)>

秋の田のいねてふ言もかけなくに なにをうしとか人のかるらん 題しらず

<新古今和歌集(4-428)>

稲葉吹く風にまかせて住む庵は月ぞまことにもりあかしける 皇太后太夫俊成女

5-453)>

わきてなど庵守る袖のしをるらむ稲葉にかぎる秋の風かは 前大僧正慈円

7-753)>

近江のや坂田の稲をかけつみて道ある御世のはじめにぞつく 皇太后太夫俊成

7-754)>

神代より今日のためとや八束穂に長山の稲のしなひそめけむ 権納言兼光

10-920)>

旅寝してあかつきがたの鹿のねに稲葉おしなみ秋風ぞ吹く 大納言経信

<古今著聞集 18 飲食>

俊頼朝臣秋のすゑつかたに、たなかみといふ所へ罷たりけるに、いねをかけつみたるを、あれなにといふぞと問ひたれければ、法師子のいねなりといひける、又あしたに、きのふの法師子のいねにて、御みそうづとて、くはせたりにけるかな。きのふみし法し子のいねよのほどにみそううづまでなりにけるかな

<穴穂物語 初秋 2>

かくて宮おとどくにぐによりまゐれるきぬ御らむじて、すまゐのせちに、仁寿殿ふぢつぼの御装束、いかできよらにして奉らむ、中略 いかにぞ御ほにどもれいのかずさぶらふや、よしのりいふ 御ほには、わせのよねを仰せつかはせこけむ、ことしはわせのよねいとをそきとしなりといふ。

<曾根好忠集 7>

我まもるなかての稲ものきは落ちてむらむらほそき出にけらしも

7>

我宿の門田のわせのひつぢほをみるにつけてもおやの恋しき

8>

あしげなるおくての稲をまもるまに萩の盛は過やしぬらん

<躬恒集>

み山田のおくての稲をかりほして まもるかりほにいく夜へぬらし

<蜻蛉日記144>

人々、御粥など、けしきむめけば、例食はぬ物なれば、…

<方丈記>

楫取 またも鯛もてきたり、米、酒、しばしば与えき

<山家集 秋歌>

夕露の玉しく小田の稲むしろかへす穂末に月ぞ宿れる

<徒然草(44)>

遥かなる田の中の細道を、稲葉の露にそぼちつつ分け行くほど、…

<御伽草子(かくれ里)>

庭には立臼二つ並べ、米を打つ所もあり。その米唄を聞けば、

(一寸法師)>

童がこの程集めて置き候撒米を、取らせ給ひ御参り候」と申せば、

<夫木和歌抄 早苗>

いまやははや さつきもまたず みたやもり わきほの稲の 早苗とるなり

藤原 為家

(7 1)

早苗とる 菅のをがさの 並ぶさへ ほかにことなる 住之江の岸

慈鎮和尚

(77)

郭公ホトトギス 声にうへめの はやされて 山田の早苗 たゆまでぞとる

西行 上人


わさなへも 植時過る ほどなれや しでのたをさの こゑはやめたり

恵慶 法師


風わたる野田の初穂のうちなびき そよぐにつけて秋ぞしらるる

藤原 為家


ゆふぐれは みやまおろしに我家の 門田の稲の 花の波よる

後久我内大臣

<夫木和歌抄 夏田>

しづのをがしげるいなばの五月雨に晴れ間をみてや田草引くらん

藤原 知家

(9 3)

門田吹く ほむけの風の よるよるは 月ぞいなばの あきをかりける

藤原 定家

(6)

道のへの わき田の鳴子 けふみれば 秋をかけてぞ 風も身に泌

藤原 為家

<夫木和歌抄 秋田>

風わたる 野田の初穂の うちなびき そよぐにつけて 秋ぞしららる

藤原 為家


夕露のたくましくを田のいなむしろ かへすほずゑに月ぞやどれる

西行 法師

(12 秋部3)

たみのとの あまつ空ある 秋の日に ほすやをしねの かずもかぎらず

藤原定家


いなむしろしくや門田の秋風に民のみつぎをいそぐ比かな 

中原 師光朝臣

(87)

小山田の いなばをこむる くゑかきの あれまくみれば 鹿入りにけり

葉土 光俊


あをけなる おくての稲を まもるまに 萩のさかりは 過やしにけり

曾袮 好忠

<散木弃謌集 3>

おぼつかなたが袖のこにひきかさね ほうしごのいねかへしそめけん



山里はいでいこのへる袂ごに 風そよめきして袖しぼるなり


<後撰和歌集 5>

ふたりのおとこに物いひける女の、ひとりにつきにければ、いまひとりがいひ遣わしける



あけくらしまもるたのみをからせつつ たもとそほづの身とぞ成ぬる



心もておふる山田の ひつぢぼはきみ守らねど刈る人もなし


<後拾遺和歌集11>

鴫のふすかり田にたてる稲くきのいなとは人のいはずもあらなん

藤原顕季朝臣

<蔵王和歌集 夏>

水かけて秋まつ草のよなよなに 露とみゆるはもしほたるかも

基俊


とくうへて吾田の面に秋まちて水かけ草ぞ刈しほとなる


<養生訓>

飯を炊ぐに法多し。…新穀の飯は性つよくして虚人はあしし。殊に早稲は気を動かす、病人にいむ。晩種は性かろくしてよし。

<玉勝間14>

米粒を仏法菩薩などいひならへる事 穀物を疎かにすまじきよしをいふ時に、米粒などを仏法といひ、東国にては菩薩といふ、これ大切にして、おろそかにすまじきよしなれば、然いふ心はいとありがたけれども、仏菩薩より尊きものなしと心得たる心よりしかいふなれば、言はいとひがごとなり、神とこそいふべけれ、まことに穀はうへなきものなれば、神と申すべきものなり、

<俳諧>

この頃のおもはるる哉稲の秋

土芳

半分は汗の玉かよ稲の露 

文政句帖


こめ国の上上吉の暑さかな

一茶

利根川や稲から出て稲に入る

一茶


麗しき稲の穂波の朝日かな

路通

稲妻のかよひてはらむいなば哉

繁勝


早苗とる 手元や昔 忍ぶ摺

芭蕉

稲雀 茶の木畠や 逃げどころ

芭蕉


稲こきの姥もめでたし菊の花

芭 蕉

早稲の香や 分け入る右は ありそ海

芭蕉


日のちりちりに野に米を刈

正平

米かりに草の戸出る朝がすみ

芭 蕉


新米に まだ草の実の 匂ひかな

蕪村

稲守や袖もかわらぬ露の世に

里 秋


稲刈りて 化をあらわす かかしかな

蕪村

早稲の香や 聖とめたる 長がもと

蕪 村


山のわらびをつつむ藁づと

安信

わがいほは鴬にやどかすあたりにて 

野水


稲つけて 馬がゆくなり 稲の中

子規

どの家も 飯くう昼や 稲の花

虚子

[用途]

[子実]

食料()、日本人の主食、餅、煎餅などの菓子類、米粉、糊、 →酒、 味噌

[]

油原料、オリゴ糖原料、糠漬物。

[葉、稈]

藁工芸品、充填財、縄、

[籾殻]

珪酸肥料、充填材。

[補足]

: イネ科の植物細胞はSiO2を取込みガラス質となることによって、茎を強固にし倒伏を予防している。故に、稲作にあっては、珪酸肥料を与えない場合、強風が吹くと倒伏して成長が遅れ、また収穫が面倒になる。珪酸分はすべての土壌に含むが不溶性であり植物根はこれを吸収し得ない。吸収可能な珪酸としては植物の灰、ベントナイト、凝灰岩など、また珪酸肥料(高温で溶解した珪酸塩を水砕したもの)、溶成燐肥が有効である。

米の香り成分:アセチルピロリン acetylpyrorine パスマテイ種の米、日本ではキタカオリに多く含まれる。

白米の毒 :明治政府は国民皆兵の政策により徴兵したが、その軍隊で脚気なる病気が蔓延した。明治15年遠洋航海に出掛けた軍艦龍襄の乗組員371名のうち169名が脚気に(死亡25)罹る惨状で、その病因について朧げながら白米が怪しいという風評が立ち、海軍軍医総監高木兼寛は明治17年軍艦筑波の航海ではパンによる洋食に代えたところ287日の航海を終え患者は14名に止まった。これに対し、陸軍は陸軍軍医総監森凜太郎(鴎外)は原因は微生物の説もあり、洋食の切り替えは問題ありとして麦混用米を採用した。これが微量栄養分の欠如であるとし、オランダ人Dr.エイクマンはニワトリの実験で、精米の際除去される糠にあることを突き止め、日本の鈴木梅太郎博士は明治43年この成分を分離しorizarinと命名した。その後国際的にthiamineと呼び、米国では aneurin と呼んで居る。これが栄養学でビタミンの連鎖的発見に繋がるのである。 脚気の歴史は古く、すでに晋の時代(265420)に嶺南地方に発生した記録がある。日本では奈良時代にその病状が知られ、平次に白米の毒が報道されたのは戦後に起きた黄変米の件である。かび毒については、明治24年に榊順二郎が論文を発表している。

thiamine

acetylpyrorine

時代はずっと下って、昭和22年戦後の混乱は極度の食料難にあって、世界各地から米の輸入が試みられた。第一陣に着いたエジプト米を検査すると1/3が黄色く染まって居る。所謂黄変米時代である。農林技官角田宏氏はこの問題に取り組み、Aspergillus flavusなる黴がアフラトキシンB1を産生し、これが発癌性があり、また神経障害・肝硬変・腎臓障害をおこすことか確認され、政府は138,000トンのカビ汚染米を廃棄処分せざるをえなかった。のちに、Penicillium citro-virireからシトレオビリジン、P.islandicumからルテオスカイリン、P.citrinumからシトリミニンが単離され、これらはガンプロモーターとして働く有害成分であると確認された。

ルテオスカイリン

シトレオビリジン

シトリニン

アフラチキシンB1

[因語俚諺]

こめの飯 米を炊いた飯、生きて行くに必要な食料、何度接しても飽かない譬え

<東海道膝栗毛(2-)>

さけゥあがりゃし。米のめしをあがりゃし。

<古今著聞集(18637)>

同じ法印んら家の例飯を米の飯にしたりけば

こめ(の字)の祝い 米寿 八十八歳の祝賀

こめ(を食う)虫 米を主食とするから人間のことをいう。仕事をせずに徒食する者。ごくつぶし

<談義本・八景聞取法聞(1754)2>

桟敷の混乱ヤイ爰にも米喰う虫どもか

こめは実が入れは俯く 稔るほど頭の垂れる稲穂かな

<譬喩尽(1786)5>

米は実が入れは俯く 人間は実が入ると瞻アオムく

こめを数えて炊カシぐ つまらないことにこせこせと気を使う。また物惜しみをすること

<荘子>

庚桑楚「簡〓髪而櫛、数〓米而炊竊竈又何足ニ以済ー〓世哉

稲孕ハラむ 稲の実が膨らむこと、稲妻によって稲に子ができるという伝説

<毛吹草(1638)6>

稲妻のかよひてはらむいなば哉

いねは柳に生ず 柳がよく茂る年は豊作であるという言伝

<農業全書2-1>

稲は柳に生ずとて、楊柳のさかゆる歳が稲のよきものなり

いねの虫 昆虫ウンカの異名

<苹窓集(1812)>

道野辺や小萩にうつる稲の虫

いねの()波 稲の実った穂がひろびろと広がってつづくのを波に見立てていう語

<類題発句集(1774)>

麗しき稲の穂波の朝日かな s

<七草(1728)>

いねあげよ明て秋の田かかる代に

稲は刈旬百日植旬一日・麦は刈旬一日蒔旬百日 稲は刈るのは百日くらい遅れてもよいが、植えるの時期は一日も遅れてはいけない、麦は種を蒔くのは百日おくれてもよいが、刈り取るのは一日も遅れてはならない。

いね挙ぐる 正月の忌み言葉で起きる。()ねるを同音の稲にいいかけ、その縁語であぐるとしたもの。

- イネの起源と栽培の歴史ー

イネには世界で広く栽培されているアジアイネOryza Sativa L.と、もう一つの固有種は西アフリカのニジェール河中流域に見られるアフリカイネO.Glaberrima Steud.がある。イネの祖先野生種はゲノム分析などで、東南アジアに広く分布するペレンニスO.perennis Mnchのアジア型で、アフリカイネはその地域にみられるブレウィリグラタO.Breviligulataであることが判明した。アジアイネの発祥地はインド地域説と、雲南・インドネシア北部の丘陵地とする説がある。

中華国の発表では、これ迄、長江中流の遺跡などで見つかった栽培稲が8000年以前とされていたが、2005122日、国営通信新華社の発表によれば、揚子江下流の新石器時代の上山遺跡(浙江省浦江)で約1万年前の世界最古の栽培稲の籾殻が大量出土されたと報じている。この籾殻は野生種より短く、幅は太い栽培種の特徴が確認されたとしている。また、湖南省南部にある道県白石寨村にある玉蟾岩遺跡(1万2千年前)から炭化米が発見されたと報じている。

これまでの確実に栽培イネであるとの資料は、インドのアフマダーバード地方のローサル遺跡から出土したもので、BC2300年頃のものとされていた。これに付着していた花粉を調べるとBC2500年頃に稲の栽培が始まったと示唆される。これは中華国から、この頃に伝播したと推定され、これから西方への伝播はアレキサントロ大王の東方遠征によってインドからイラン、イラク、シリアと順次移動し、ユーフラテス河流域ではBC400であり、エジプト、アラビアへには7001000年頃、イタリアには1468年と、欧州への伝播は比較的新しい。東方への伝播は、紀元前1000年頃インドからジャワ島に導入された。この地方は湿泥地質で天候もよく世界の米倉となっている。新大陸のブラジルには16世紀始めにポルトガル人によって伝えられた。アマゾン河流域は現在水稲の栽培が盛んで、アジアの稲作地帯に次いで生産量は多い。アメリカのカルフォルニアへは20世紀始めに伝わったが、陸稲の栽培は小麦より多くなって、大面積機械化農業で低コスト生産を行っている。

- 日本人とこめー

日本人は米に対して特別な感情を持っている。昔から、格別に米を大切に扱い、米飯を粗末にすると目が潰れるとまで言い、白米を仏に譬えて"菩薩"とも方言がある。日本では米を主食として扱うに対し、外国では蔬菜の添物の感覚で接する。リゾット、バエリア、ピロライスなとラテン系の欧州では主食らしく用いても、味付けしたものである。抑々主食と副食とを分ける考え方は欧米ではあまり強くない。中国・韓国では白粥といったものもあるが、米だけを炊いて味あうのは日本固有の食し方である。この食文化が日本の農業を支え、戦時中の食料不足の経験から、挙国態勢の政府介入の農業政策が出来上がり、これが政治・税務・貿易に至るまで直接・間接に政府の関与するようになった。栄養学からみれば、米を食さなくとも健康には支障はないし、澱粉質の代替は外にいくらでもあるし問題はないのであるが、日本人は米によって心に安らぎを与えるのであろう。このあたりが外国人の理解できない点で、貿易摩擦の原点となっている。

古くは、天孫降臨に関しての<古事記>の記事に 「…この豊芦原の水穂の国は汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ。故、命の随に天降るへし 」とある。当時の日本は葦の多い沼沢地で、確かに水穂(水稲)の栽培し易い土壌にあったろう。神事にいまでも稲穂を祭壇に捧げ、祝詞に八千稲やちしね、八百稲やおしね、和稲にぎしねなどの言葉がよく出てくる。<延喜式貢進>には、具定に舂米つきこめ、黒米、赤米、赤舂米、白米、米、酒米、糯米もちよね、庸米ちからしろのよね のあることが書かれている。<枕草子227> 「…穂に出たる田を人いとおほく見さわぐは稲刈るなりけり、早苗とりしかいつのまに…これは男どもの、いとあかき稲の本ぞ青きを持たりて刈る 」

最近、ある研究グループが古代の"赤米"を再現し試食した云々と、テレビニュースに報じられていたが、赤米、黒米はインドネシアや東南アジアで現在も普通に生産されており、格別珍しいものででもない。これは、炊くと糯米のような粘りがある。それとは別に端境期の食用にするために植えることのある大唐米タイトゴメ Sedum oryziflium Makino というのがあって、これも赤色をしているがパサパサして美味しくない。その他の古典から、奈良時代に餅を搗いていた記述<延喜式><源氏物語ー柏木>からその頃に糯米が既にあったこと、平安時代には早稲、中稲、晩稲があったこと<万葉集08-1548>、鎌倉時代には陸稲が出現したことの記録がある。戦国時代を経て江戸時代になると、大名の順位は官封された国毎の米の生産能力=石で表される程、主食としての地位は確立されたものになる。亨保(1732)、天明(178287)、天保(183398)の大飢饉があったとされているが、米の不作は生死に及ぶ重大事である。これは明治時代以降にまで続き、とくに冷気が襲う東北地方では天候不順に悩まされた。第二次大戦時は肥料と労力不足が祟って、全国民が飢餓状態となった。これらの歴史が示すとおり、日本人の米に対する主食の考え方は他国人の理解し難いところがある。

米には粳ウルチと糯モチとがある。糯は子実の澱粉が100%アミロペクチンであるに対し、粳はそれとアミロースを混じたものとなっている。また、中華国文献に米山稲と粳稲とがあるとしており、米山稲とはOryza sativevar.indicaの東アシア型であるとの説であるが、これは前記の赤米・黒米ではないか?というのは小生がインドネシアで求めた赤米黒米は糯米のような食感であった故である。

稲は熱帯系の植物であり、日本では寒すぎて、明治年代の東北地方農民は気候不順が齎す稲の不作におののいたことが伝説的に残っている。ところが農業試験所の品質改良の努力があって、キタヒカリ、キタアゲ、しもひかり、マツマエ、トトロキワセ、ユーカラ 糯では おくねもち、工藤うるち、たくねもち などの品種が出揃い北海道まで稲作が可能となった。ところが戦時色が見え始めると増産一本槍で収量の高い品種の出番となった。平和になり余剰米の時代になると食味のよいものの探索に力が注がれ、その結果 コシヒカリ、ササニシキ、アキタコマチ、の時代が到来する。

例えば、1975年の作付の順番は 日本晴が約60%以下であり、ついでトヨニシ キ、コシヒカリ、ササニシキ、キタニシキ、ニホンホマレ、貴余晴、越路早稲 といった順であったが、1985年にはコシヒカリが70%近く占め、以 下ササニシキ、日本晴、アキヒカリ、キタニシキ、小金晴、トヨニシキ、新星、ニシホマレ、 越路早稲、ホウネンワセ、フジミノリ となっている。  その後、アキタコマチが急伸している。 糯米の品種は オトメモチ、タカサゴモチ、ハタトモチ、ヤマシチモチ 等。加えて、日本独特の品種に醸造酒専用の品種があることで、例えば 五百万石、八友、等、これらは酒蔵屋と契約してその土地特産の栽培である。

確かに、一昔前の"外米"は日本人の食感に合わないものであってが、最近の米国産輸入米は安価で結構美味しく頂ける。しかし、米の品種改良について考えてみると、農家栽培に至るまで最低20年以上、試験場などで取捨選別を行い、多大の労力を費やして出来るのであって、この種子を外国の人が勝手に持ち出して、安価な労働力の下か、広い面積で大々規模な省力的生産で以て、日本に輸入攻勢をかけるのてあるから、多分に日本側として穏やかでない。しかし反面、日本の米は外国に比べると桁はずれに高価であり、消費者としては安価な輸入米を歓迎するのであるが、ここに政治が介入して複雑な物流機構を形成するのである。

米の味の測定はベロメーターで行う。米の味は、複雑で何を計ればよいか判らないし、個人誤差もあるので結局炊米を複数の人のベロ()によるのである。基準として、滋賀県湘南産の日本晴1等品を用い、精米500gに、798g加水して炊飯したものとを、10名以上の人が比食し、外観、香り、粘り、硬さ、総合の採点することになっている。また一方、米検査官はこの玄米を採米し、つぎの試験項目について判定し、等級を与える。

検査基準


最低限度

最高限度


容積率 g

整粒

形質

水分

被害粒

異種穀粒

異物 %






%

死米 %

着色

もみ %

籾以外 %


1

810

70

1等標準品

15.0

15

5

0.1

0.3

0.3

0.2

2

790

60

2等標準品

15.0

20

10

0.3

0.5

0.5

0.4

3

770

45

3等標準品

15.0

30

20

0.7

1.0

1.0

0.6

等外

700以下


15.0

100

100

5.0

5.0

5.0

1.0

[統計]

t

平成2年度

平成7年度

平成12年度

平成15年度

水稲

10,463

10,724

9,472

7,779


陸稲

31

24

18

13

小麦

952

444

688

856


二条大麦

254

192

154

123


六条大麦

69

12

38

57


裸麦

23

14

22

18

いも

甘薯

1,402

1,181

1,073

1,094


春植馬鈴薯

3,478

3,304

2,844



秋植馬鈴薯

74

61

55


豆類

大豆

220

119

235

232


小豆

118

94

88

59


落花生

40

26

27

22


蕎麦

23

21

27

27

自給率 %

平成2年度

平成7年度

平成12年度

平成15年度

100

104

95

95

小麦

15

7

11

11

大麦

12

8

7

7

雑穀

92

70

105

91

いも類

93

87

83

84

豆類

8

2

5

5

満開のイネの花

受粉が終わると2枚の花頴エイは閉じる。下図は花頴をとり除いて観るたもの、鱗皮は花弁が変化したもの

木簡に書かれた米の記事

下田東遺跡で出土した木簡


和世種三月六日


臨傷臨位別◇持


小須弥女 十一日蒔



種蒔日

伊福部蓮蜂豊足解

申進御馬事

◇◇




以 今日◇ 可命死依此御馬飼不堪

右仍豊足[  ]重病御馬飼不堪伏乞

於畏公不仕奉成命[  ]至死在 礼畏公不仕也在◇◇

この木簡の時代は平安朝と思われるが、奈良県香芝市下田東遺跡で2005年に発見されたこの木簡に 和世種‘ ‘小須賀の記跡のあることから、この時代に早生種があったことが推定される。

また、福島県いわき市荒田目奈呈遺跡で1993年発見された木簡に 古僧子‘ ‘地蔵子の品種名があり、種あり、種まきを五まきを五月十日五月二十三日と指定があるところから、これは晩種であるらしい。金沢市畝田鍋田遺跡西念で出土木簡では 酒流女‘ ‘須留女とあるのは 小須流女の改良種であるらしい。この様にこの時代でも全国共通の稲の品種が普遍していたことが判る。